2020年05月22日

ネズミやアリの胃の不快感にも効くんだろうか。ってか、ネズミやアリの胃の不快感ってなんだ?

昨夜、急に目が覚めて、台所をうろついていたら、使用期限切れの太田胃散を見つけた。

燃えないゴミの日は来週だ。
破棄するにあたり、容器は燃えないゴミになると思うんだけど、中身はどうするのがいいんだろう。燃えるゴミだろうか。

仮に、水に溶かして下水に流したら、下水管に住むネズミの胃の調子が良くなったりするんだろうか。
仮に、庭に撒いたとしたら、庭の地下に住むアリの胃の調子が良くなったりするんだろうか。

ってか、ネズミやアリの胃の不快感にも効くんだろうか。
いや、使用期限が切れているんだから、虫ら、胃の不快感は増すのか?

ってか、ネズミやアリの胃の不快感ってなんだ?
真夜中に思考してると、ロクでもないことしか思い浮かばないな。

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2020年05月19日

「正義の暴走」に「正義」とつけることのおかしさと仕方なさ。自粛ポリス・自粛警察現象。

先週、夜にラジオを聞いていたら、最近の「自粛警察」「自粛ポリス」と呼ばれる現象(ルールを守って営業しているお店、あるいは、そもそも営業を休止しているお店に対し、嫌がらせの張り紙などを行う行為等)について、いわゆる「正義の暴走」としている点について、悪いことをしているのに、暴走とはいえ「正義」と名付けるのはおかしい、という意見があるという話を聞きました。

確かにその通りなのでしょうが、ただ、おそらくやっている本人は、正義だと思っているだろうし、あるいは、「ちょっと懲らしめてやろう」程度の想いなのかもしれません。

その話題を受けて、番組内では、戦前の過度な思想取り締まりであるとか、ナチスのそういった秘密警察的なものは、警察組織の力だけでなく、「密告」などの「市民の力」も大きく発揮されていたという話が出ていたかと思います。
おそらくこれらも、やっている本人は、正義だと思っているだろうし、あるいは、「ちょっと懲らしめてやろう」程度のものかもしれません。

実際、隣人とのトラブルが原因で、「ちょっと密告してやろう」「懲らしめてやろう」という程度からというものもあったのだとか。

そういえば(私は「自称正義」と呼んでさしあげましたが)、2015年に、虚偽の事実を信じ込んで、私のことを糾弾してきた人がいたことが思い出されます。ウイルス対策ソフトの不備に関連することなので、あまり思い出したいことではないんですが…。
その人も、そういった「正義の暴走」の一環なのだろうというのが、私の理解です。

例のウイルス対策ソフトの騒動自体もそうだし、先の、虚偽の事実を妄想して糾弾してきた人もそうだけど、彼ら彼女ら自身は、特に「悪いことをしてやろう」「自分は悪人だ」と思って行動を起こしているわけではないと思います。というか、そう信じたいです。

ウイルス対策ソフトメーカーの中の人が、「自分は悪人だと自認」しながら日々生きている・日々仕事に励んでいるとは思いにくいわけで。(まぁ、多少「サボってしまう」「大企業病の壁が登れない」みたいなのはあるかもしれないですが)

世の中、ドラゴンボールに出てくるフリーザみたいな、わかりやすく「自分は悪人だ」と自認している人ってのはあんまり?、いや、ほとんど?いなくて自分が正義だと思って(思い込んで)行動していたり、「この行為は、ちょっとした懲らしめだ・懲罰だ・天誅を下してやっているんだと思って」行動している人がほとんどなんだろうなと想像します。

昨今のコロナ禍に関連して、生活必需品等をメルカリで転売している人も、もしかすると、自分が悪人だとなんて全く思っていない、みたいなのは、各種インタビュー記事を見ていると思い浮かんできます。むしろ、自分は経済を回しているヒーローだとか、思い込んでいる風な感じがします。とんだ勘違いですが。

今回のコロナ禍でチケット転売ができなくて、あるいは、チケットの払い戻しの手続きが大変で、自分は被害者だとか思い込んでいそうな節もあります。
彼らは自分が悪人だとは思っていないでしょう。もしかしたら善人やヒーローだとすら思っているかもしれません。

「スーパーになかなか売っていない粉モノをスーパーで見かけたので、皆さんに行き届くようにするためにメルカリに出しました!」と言っている主婦がいるとも聞きますし。
まさか自分が「悪人」になっているとは思わないでしょうね。「善意の道が地獄に続いている」みたいなのは、よくあることです。ちなみにこれはヨーロッパの格言だそうですので、日本人特有のことというわけではないようです。人類って、こういうものなんでしょうね。

(正確には、「地獄への道は善意で舗装されている」だそうです)

日本の田舎の村八分風習だけではないし、日本特有の感情でもないし。人間というものがもつものなんでしょうね。

そういえば、クラスの中でイジメがあったとして、いじめっ子は、まさか自分が「いじめ」をしているとは思っていないという話を聞いたことがあります。クラスの輪からはみ出したやつを懲らしめてやろうという発想なんだとか。いわゆる道徳の授業で「善とはこういうものだ」という思考を植え付けるとか、クラスの団結を求めるとかしてしまうと、少しでもはみ出した人を許せなくて、「懲らしめ」に走るんだとか。でもそれは「いじめ」になるわけで。善意だと思って、あるいは正義だと思って「懲らしめ」をしていても、後から振り返ればそれは「いじめ」に他ならない。

Wikipediaの「地獄への道は善意で舗装されている」の「集団の倫理的な行動を改善しようとする試み…」以降の話は、そういったことを書いているのだと思います。

なので「いじめはやめましょう」という標語を掲げても、ハナっからその行為が「いじめ」だと思って行動している人はいないだろうし、「悪いことはやめましょう」といったところで、ハナっから「悪いことをしている」と思って行動しているわけでもない。
ましてや「自粛警察」「自粛ポリス」が、「自分はいじめをしているんだ」「自分はフリーザみたいな悪人なんだ」と思って行動しているわけもない。

そういう意味では、そういう人に対しては、とりあえず「正義」だけど「正義が暴走している」というロジックで説明してやらないと、通じないんだろうなという気がします。


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2020年05月11日

100で割り切れる年のうるう年については知っているのに400で割り切れる年については知らない?

西暦2000年のときに、「2000年問題」が発生していました。もうあれも20年前のことになるんですね。

あの当時、プログラミング上のよくあるミスとして言及されたものに、「うるう年」のレアに訪れるルールがありました。

  1. 4で割り切れる年は、うるう年である
  2. ただし、4で割り切れても、100で割り切れる年は、うるう年ではない
  3. しかし、100で割り切れても、400で割り切れる年は、うるう年になる

要するに、1996年はうるう年だが、1900年はうるう年ではない。でも、2000年はうるう年である。

上記のうち、1と2はプログラミングされており、3がプログラミングされていない状態だと、2000年をうるう年ではないと扱ってしまい、バグが発生する、というもの。

でも、1だけ知っていて2と3は知らないという人が多いのは理解できるのですが、1と2を知っていて3を知らないという人がいるとは、ちょっと考えづらいんですよね。
ネット上でも同じことを考える人がいて「そんな、ズボンをはいたのにパンツをはき忘れるような人はいるのか?」という例えを言っている人がいました。確かにそんな感じだ。

似たようなのに、「ウサギは匹ではなく羽で数える」ということは知っているのに、「その由来を知らない人」なんて人はいるのか?というのを最近感じました。

たぶん、ウサギを羽で数えることを知っているくらいなら、その由来も普通に知っていそうな気がする。


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